3月10日-長い長い60年-
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<母の育った場所>
母が育ったのは、東京の下町、日本橋浜町や日本橋中州のあたり。
都営地下鉄の「浜町」でおりて、地図をみながら母の10歳の頃の遠い記憶をたどって、歩いてみることにしました。
60年この地にこれなかったという重い雰囲気はまったく無く、童心にかえったように楽しそうに歩き回っていました。
歩くごとに蘇ってくる思い出話を楽しそうに話す母。
新大橋のところのおまわりさんと仲良しだった、とか。
中州から明治座のすぐ近くの旅館によくおつかいにやらされた、とか。
一日に一回、はね上がる勝ちどき橋を見に、いつも隅田川沿いを走っていった、とか。
清洲橋がみえてくると「懐かし〜〜〜!!!」と大興奮。
家は、清洲橋のすぐ近くで、桟橋のように庭が川につきでていて、階段をおりて隅田川で遊べるようになっていたんだそう。
清洲橋は、形は当時と変わらないそうなのだが、色が変わってしまったようで、昔は黒くてかっこよかったそうな。
高いところが大好きで、橋の吊ってある部分を半分くらいのぼって遊んでいたら、おまわりさんがとんできてものすごく怒られたんだとか。
そんなエピソードを聞いたので「いいよ、いいよ」という母を、無理矢理、橋に座らせて写真を撮りました:)
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<祖父のこと>
母の住んでいた家は、正確にいうと、東京大空襲のちょっと前に、軍隊から、ここはちょうど爆撃があった時に爆風の通り道にするから取り壊す、と強制的に家をつぶされてしまったのだそうです。その頃は、お国の為にと従わざるおえなかったのですね。そんな出来事も母が疎開中の出来事だったので、戦争が終わっても生まれ育ったこの場所に帰ってくることができなかったのだそうです。
私の祖父、祖母は、仕方なく代々木八幡へうつりましたが、そこも空襲にあい、家を焼かれ、初台へとうつったのだそうです。
初台へうつった時に、祖父は、、空襲で銃弾をあび負傷し、そのまま意識は戻らずに亡くなりました。
その亡くなった夜、遠い地で疎開をしている10歳の母のところに、祖父は会いに来たのだそうです。「お父さんが会いに来た!」とまわりの人に言っていたら、、その数時間後に、東京から「チチシス、カエルニオヨバズ」と電報が届いたのだそうです。
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<中州の家から、浜町小学校へ>
今や大きなマンションやビルになってしまった、かつての母の家。建物はすっかり変わっても、道は当時のままのようでした。
中州、という場所は、隅田川とその支流に囲まれた三角州だったそうですが、その支流はすでに埋め立てられて、ちょうどその上を高速が走っておりました。
「この辺だと思うんだけどなあ〜〜」
と母が幼い頃に通った通学路をたどっていくと、そこは、浜町会館と保育園になっていました。中に入って聞いてみると、外の壁に碑があると教えてもらい、見に行きました。
自転車置き場の壁にひっそりとあるその碑には、3月10日の大空襲で焼けてしまった学校のこと、お亡くなりになった方のことが記されていました。
じーっと見つめる母。くるっと向いて
「やっと、ここに来れた!これで、天国で堂々と友達に会えるわ!」
と笑っていいました。
空襲で亡くなってしまった友達、学校の先生、近所の人達に、天国で再会した時に一度もお参りにこなかったとあっては、みんなにあわす顔がない、と思っていたそうです。
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<おつかい>
無事、かつての家と小学校に行く事ができ、ほっと一安心。
ちょうどおなかもぺこぺこになってきたので、母がよくおつかいに出されていたという明治座の近くの方まで歩いていきました。
中州から浜町公園をつっきって、明治座へ。
そして、甘酒横丁を通り、人形町へ。人形町へもよくおつかいに行っていたそうです。人形焼きや干菓子を買いに。
親子丼で有名という「玉ひで」にいってみました。
しかし、、がっくし、すでにお昼は終わっておりました。
人形焼きを買い、水天宮へ。ベンチに座ってぱくぱく食べました。
「ようちゃんの為に水天宮にお参りにくるのはいつかなあ〜」
と母がさりげなくどっきり発言。さて、いつになることやら。
私はまだまだですが、今年出産の親友の為にお参りをして、お守りを買いました。
水天宮で、母がケロッとした口調で
「水天宮からこの先にどうして60年これなかったのかなあ。きちゃったらたいしたことないのになあ。でもこれなかったんだよなあ。」
と言っていました。
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<ぐるり日本橋:中州〜浜町〜人形町〜水天宮〜小網町〜茅場町〜東京>
水天宮をあとにし、母達が戦後、初台の家から引っ越して住んでいた小網町まで歩きました。そう、この小網町の家は、私も小さい頃におばあちゃんの家として何度も遊びにきたところです。おばあちゃんは、私が4年生の時に同居することになり、この小網町の家も時代の流れで、立ち退きにあいビルになってしまったのです。
ここだよ、と教えてもらったおばあちゃん家のあったところは、まったく思い出とは異なる風景でびっくり。裏のおいなりさんだけがかすかに当時の記憶と重なりました。駅からおばあちゃんちに行く時に、このビルの裏の細い路地にひっそりとあるおいなりさんが、子供心にすごく神秘的に思っていたのです。
いつも父がふざけて私を落とそうとした運河をこえて、茅場町のおばちゃんのお店により、すっかりピークをこえてしまったものの、何か食べて帰ろう、と日本橋駅の方へ歩き<たいめいけん>でオムライスを食べて、東京駅から帰ってきました。
長い長い一日でした。ものすごくよく歩きました。
しかし、母にとっては、それは、一日、ではなく、長い長い60年だったのです。60年もの間、足を運べなかった、という気持ち、戦争を知らない私には到底理解をこえた心の傷です。でも、こうして、つきあってあげることができて、少しだけだけど母の助けになれたことがうれしく思いました。
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コメント
いい話だねって、そりゃ僕の母の話でもあるからね。
いつも前向きに明るい母に育てられた僕たちは、
本当に幸せだね。
今のうちに親孝行しなくちゃ。
息子連れて遊びに行ってやろう、
って息子はインフルエンザだよ。たいへん!
投稿: bob | 2005.03.14 01:22
親孝行しなくちゃねえ〜〜!
おいっこちゃんは、インフルエンザ!?こないだまで入院で大変だったのに、またまたかわいそうに!お大事に!!!(家族全員倒れないように〜〜!)
投稿: yo! | 2005.03.14 10:37
はじめまして、Twitterから伺いました。ご母堂様の辛い思いに、言葉を失います…。私もその辺りに住んでいたことがあり、大空襲の話は親戚からぽつぽつ聞いておりました。痛みを覚えながらも消してはいけない記憶を新たにさせていただきました。ありがとうございました。
投稿: anna_rouge | 2010.03.10 12:24
anna_rougeさん
そうですか、あの界隈にいらっしゃったのですか!親戚の方々とも母はひょっとしたらご近所さんで顔みしりだったりするかもしれませんね:)
消していけない記憶:私は年のはなれた末っ子でしたので、同級生で親が戦争を知っている人はごくごく少数でした。そんなこともあってなのか?母から聞いた話を私も次の世代に、と少なからずはりきったりしてしまいます。
稚拙な文で恐縮です。最後まで読んで頂き、メッセージまでくださってありがとうございました!
投稿: yo! | 2010.03.10 12:54